ナポレオン三世が起案し、セーヌ県知事オスマンが実施したパリ大改造は、第二帝政が崩壊しオスマンが失脚した後も一部継続された。中でも、レオミュール通り(rue Réaumur) の開設事業は、1900年のパリ万博に向けメトロを地下に敷設し市内の交通渋滞を緩和すべくパリ市の最重要計画の一つに位置づけられた。また、建物の高さと立面の張出しに関する規制緩和(1882,1884,1902年)と連動し、パリで初となる「ファサード・コンクール(Concours de Façades)」も実施され、オスマン型の画一性を脱し、「ポスト・オスマン」期に相応しい都市景観を模索するパリ市の格好の舞台となった。その実践に向け、まずは稠密な歴史中心地区での土地収用と用地整備が不可欠であった。本稿では、公証人記録を一次資料とし、パリ市による換地(échanges)と分譲(ventes de lot)の実態を詳述した。